無気力な生活の中でも鎮火しきることのないエネルギー、赤々と燃えることはなくても、青い一瞬の閃光として放電される。
田舎であってもドル紙幣、拳銃、外交問題のニュースとアメリカが途切れ途切れに入ってくるが、若者が憧れるような欧米文化は入ってこない。向こうからふとした瞬間に現れるだけでこちらからアクセスすることはできない。明確なつながりがない。
唯一ハレの場としてクラブだけがあるが、そこはヤクザの縄張りで盛り上がりかけたロマンスは頓挫する。
例えばエドワード・ヤンのクーリンチェでもアメリカが憧れの対象であり、閉塞した環境にいる若者には大抵の場合そうしたわずかな希望が用意されていてそこにしがみつこうとするものだが、この映画の場合はそうなっていない。
若い女性歌手が歌うのは民謡で、テレビをつければ猿のアニメーションと二番煎じのバンドミュージック。
映画を真似たダイナマイトでの銀行強盗は即座に失敗する。ここで爆発させたい何かはあるのに肝心の火がなかったことが象徴的でしびれる。
捕まらなかった片割れは何もない土砂だけの大きな道をバイクで走っていく。これがアメリカのイージーライダーのような映画を思い起こさせるが、古いバイクは故障して止まる。
夢は夢の形を保てずに手に取ってみるたびにことごとくこれも幻だった、これも幻だったと潰えていく。
後記
でもその結果までの過程は確実に存在し、人生に刻まれる。
そして、それがまさに映画なのでは。
問題とその結果のみを見せる、どんでん返し映画やミステリーへの完璧なリプライ。
過程はあるが、結果はないそしてリアルな人生はこっちに近い。